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日本はなぜ植民地にならなかったのか? その5

水戸黄門で有名な水戸光圀。

徳川御三家のひとつ、
水戸藩の2代目藩主であります。

日本はなぜ植民地にならなかったのか? その4
日本はなぜ植民地にならなかったのか? その3
日本はなぜ植民地にならなかったのか? その2
日本はなぜ植民地にならなかったのか? その1

この方は少年期は誰もが手を焼いた問題児で、
今の世でいえば少年院送致は当たり前、
水戸藩の跡継ぎだから助かっているようなものの、
一般人ならば間違いなく極刑が下っているであろう
程の暴れん坊だったそうな。

後の世代に名君として語り継がれる方の
ほとんどにこういう逸話があることは
何かの意味があるのかもしれません。

周りの方々がこの光圀少年に対しては
手を焼きほとほと困り果てていたそうな・・・

しかしある出来事が光圀少年を変えます。

中国の歴史書『史記』

18歳の時に出会ったとされる
この一冊の本との出会いが
彼を目覚めさせたのです。

そこから180°人が変わったようになり、
勉学に勤しむようになり、
多くの学者を呼び寄せたりして
さらに学びを深めようとするほどの
勤勉家へと変貌を遂げます。

「大のつくほど勉強嫌いだった少年が・・・」

周りが驚くほどの変貌を遂げた光圀公。
彼を湧き立たせる情熱は半端なものではありませんでした。
しかし、それとは同時に違った思いが湧き上がってくるのも
感じます。

中国の歴史書に感銘を覚えると同時に、
これに相当するような歴史書が日本には
まったくなかったからです。

「日本とは一体なんなのだろうか?」

という複雑な思いが湧き上がってきたのです。

今となっては意外かもしれませんが、
当時は日本の歴史に関する書物というのは
8世紀の初期に書かれたとされている
『古事記』

また中国から日本を見た
『魏志倭人伝』

これぐらいしかありませんでした。

1000年近く前に書かれた書物、古事記。
遠く離れた中国人が古事記よりもっと前に
書いたとされる魏志倭人伝。

そんなもので日本の正確な歴史が
わかるはずもありません。

猛烈に中国の歴史書に感銘を受けた光圀公、
それと同時に、史記のように日本の歴史を
あらわした書物を誰かが作り上げなければならない
といった気持ちも強くなってきました。

そしてその思いから光圀は
日本の歴史を編纂するという大事業に
取り組むことになります。

『大日本史』

なんと完成までに200と数十年かかり、
光圀公の意志を継ぎ水戸藩の一大事業として
明治時代にようやく完成。

彼の死後も藩の事業として継続されたことからも
光圀公のこのプロジェクトへの、
日本の歴史編纂への強いものが感じられます。

今回はこの大日本史編纂に関わるお話。

今はインターネットがあり、
交通手段も空を飛べるくらいだから
非常に便利ですが、
当時江戸時代は1600年代。

この事業を成功させるためには
非常に大きな代償を要しました。

「めちゃくちゃ金がかかる!」

京都に行くのだって
数十日かかります。
宿代、食費などはハンパじゃない。
(それ以外にもすさまじくかかるだろう・・・)

優秀な人を雇う必要もある。
(その時のプロジェクトに集まった儒学者の中の人が
助さん・角さんのモデルらしい!)

しかも日本の歴史を編纂するのだから
もちろん日本全国を飛び回らないといけない。

その当時の行動力で全国を飛び回るのだから
費用なんてのもまったく想像出来ないし、
プロジェクトに関わる人間の数というのも
まったく想像出来ません。

わかることはハンパでない
金がかかることと歴史を調べていくために
おそろしいぐらいの苦労があったであろうこと。

そのために水戸藩の税金は重くなり、
領民からの不満は強かったそうです。

領民の不満を買ってでも
歴史の編纂に取り組んだ水戸藩の功績は
今となっては非常に大きいものとして
評価されますが、
おそらく200年もの長い期間は
暗中模索だったに違いありません。

また、この大日本史を編纂するにあたり
水戸藩は大きな『法律違反』まで犯しております。

今風の言葉でいうと
『国家反逆罪』

時の将軍、5代綱吉公に
犬の毛皮を送り付けるぐらいのお方ですから
もう幕府とか将軍とかは怖くはないんでしょうが、

今度は内緒で法律違反してしまいます。

その法律違反とは

『船をつくる』

???

って感じが自分ははじめ知りましたが、
なんとこの時代は舟を幕府の許可なしで
作っちゃいけないらしい!!

お城の増改築などもそれで、
軍備増強などはやっちゃダメだった!
それぞれの藩に勝手に軍備を強化されたら
幕府はメンツを保てなくなるので、
武力を中枢の徳川に集中させて
平和を維持しようとしていたのだ。

もちろんそれは徳川御三家である
水戸家も例外ではありません。

バレたらもちろん思い処罰です。

というか身内が罪を犯して
処罰しないなんてことは
他の大名たちにまったく示しがつきませんし、
そんなことになったら不満を買うどころか
全国から一斉反逆をくらいかねません。

だから同じ徳川家の大名でも
法律破りは厳しい罰則があるのは当然といえます。

しかし、光圀公は禁を破ります。

日本の歴史を編纂するために
どうしても大きな船が必要だったのです。

目的地は『蝦夷』

北海道のことです。

当時の北海道といえば、
まったくの未開の土地で、
まったく謎だらけの世界だったそうです。

アイヌの人たちと交易などは
しておりましたが、
日本の歴史とはそれほど深い関わりがあったとも思えません。

思えませんが、
ある伝説を調べるために
わざわざ北海道まで船を運ぶ必要があったといわれています。

『義経伝説』

一説では鎌倉時代の
源義経(牛若丸)が逃げ延びて
蝦夷(北海道)に行き、
そこで英雄になったという話があるそうです。
(その後モンゴルに行ってチンギスハンになったという話まで・・・)

その真偽を確かめたいという目的も
蝦夷に遠征した理由のひとつというのが定説です。

しかし、そのために7000両もの大金を
つぎ込んで船をつくった水戸藩。
(今のお金でいうと3億から7億以上らしい!!)

日本の歴史書をつくろうという
信念というか執念がハンパではない。

こうした水戸藩の背景などが
200年以上あり大日本史が完成します。
水戸藩2代藩主、水戸光圀が日本の歴史を
編纂しようとした事から始まり、

日本の歴史の変わり目、
明治維新に大きな影響を与えることに
なるとは不思議なものだと思います。

次回はこの水戸藩の一大歴史事業が
明治維新に与えた影響を書いていきたいと思います。

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